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どうも、ピアノ部部長、音大生のこうきです。最近、私はピアニストにはなれないのではないか、という絶望を味わっております。いいえ、正しい努力と練習、そして果敢な挑戦により天才に打ち勝つことが出来るのです。今回は論文形式で書いてみたので、かなり硬い文章になってしまいましたが、悪しからず。ここまでの練習法の1つのまとめですね。
目次
基礎を築くこと
ピアノにおける基礎とは①自由に動く指を作り、良い音を持続的に出すこと②演奏を緻密に聞き取る耳を作ることの2つに集約される。
①は様々な作品を弾く上で必要不可欠である。また、自由に動く指を作っても良い音でなければ意味がない。ホールに通る、透き通った音が基本の音だと定義してみる。これはどんな音色でも通ずる指標だ。
②は俗に言う耳の訓練だ。いくら指が動いても、それが良い音楽を生み出しているか確認するのは耳の仕事である。指はあくまで頭にある音楽をピアノに伝達する媒体でしかない。
基礎
どんなジャンルにも「基礎練習」は存在する。ピアノにもハノンやツェルニー、ピシュナ、コルトーが名を連ねているが、私の思う基礎練習を例としてあげようと思う。内容は下記の4つ。
- コルトー
- ピシュナ
- 音階(全調、長音階と旋律的及び和声的短音階)
- ロシア式分散和音(後述の譜面を参照)
コルトーは指の独立や基本的なタッチを学ぶのに必要である。ピアノはいかに筋感覚を育てるかでタッチの良し悪しが決まる。ハノンでは、タッチの神経を鍛えるのには少し不十分に感じた。
ピシュナは基礎的な指の筋力をつけることに長けている。4指は誰もが弱いが、訓練次第でいかようにも動くようになる。はじめのうちは非常にゆっくり、慣れてきたらテンポを上げる。基礎的な筋力が備わると、指が動きやすく感じられるはずだ。
ここで敢えて筋力という言葉を使った訳はイメージしやすいからだ。実際、ピシュナを弾いて筋力はアップしない。本当に鍛えられるのは神経、もっと正確に言えば筋感覚である。
音階はもちろんタッチにも役立つのだが、主な目的は耳の訓練である。音階はばらつきがあると直ぐに分かるものだが、耳の鈍い人はそれを感じにくい。どんなばらつきも許さない耳を作ることは、必ず楽曲の練習でも役に立つだろう。
ロシア式分散和音というのは、ある基音を決めて、そこから考え得る和音を分散和音の練習に使うことをいう。1つの和音につき2往復程度で良い。こちらも耳の訓練になることは言うまでもないが、指が自由に動くようになるには、このような「弾きにくい」基礎練習が必要だ。
尚、ハノンやツェルニーを外したのは、あまりに長大であるが故、集中力の限界を突破してしまうからだ。人間の集中力は我々の思っているよりずっと短い。ハノンの30番まで通すには約30分必要だが、30分の間ずっと手と耳に神経を通すのは非常に難しい。
集中しない練習は、練習しないのと同じである。またハノンをただ弾くとタッチが甘くなり、非常に鈍感で冴えないタッチが生まれるのである。
また、多くの時間を基礎練習に割く人がいるが、これも考えものである。現代の演奏家は様々な作品を演奏することが求められるから、昔ほど時間はない。その中で「基礎」を大義名分に長時間さらうのは疑問に思う。それで花開く場合もあるから一概に批判はできない。
多くの作品に触れ、表現方法の拡充に努めること
バッハと古典が大事だというのは間違いではない。日本における古文が、現在の我々の考え方を司っていると考えれば、古典派の音楽を学ぶ必要があるのは自ずと理解できる。
だから同時に抱える作品の中に、このような「基礎」とも言える作品を入れる必要がある。私の一例をご覧頂きたい。
- J.S.Bach(バッハを中心にバロック)
- 古典派のソナタ(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)
- エチュード
- 作品
- 本番
J.S.Bachをさらう必要は大いにある。そもそも作品の数が多いし、J.S.Bachを学ぶにはそれなりの時間がかかる。同時にラモーやクープラン、スカルラッティを勉強することで、当時の鍵盤楽器作品の技法や様式が理解できるだろう。
特に対位法の理解において、J.S.Bachに代わる教材を私は知らない。非常にロジックに書かれていて、そして当時の作曲慣習(調性ではなく旋法で書いていたことなど)が分かる。
古典派のソナタと書いたが、変奏曲でも良いだろう。また、彼らのピアノ協奏曲はピアノソナタと比べて難易度が同等であるものが多いから、そちらを勉強するのも良いだろう。
古典派の勉強意義は表現方法の拡充にある。はたから見ればただの音列にどのような解釈を乗せ、どのように表現するか。なぜそのように表現したいのか。そのような表現方法の引き出しを増やすのに、古典派の音楽は役立つ。
エチュードはその作曲家のテクニックにおける癖を見るのに最適だ。もちろん、人によって合う合わないがあるから、弾けない作品に出会ったから落胆することはない。別の作品をうまく弾けばいいのだ。
作品とは、本番に出す予定のない作品を指す。本番に出す作品は聴衆のことを考える必要があるが、ただ勉強するだけであれば関係ない。自分の思う表現を試したり、探したりするのが良い。
本番に出す作品は、そりゃ、やらなあかん。
ここで重要視するのは「表現方法の拡充に努めること」である。古典派の勉強意義と重複するが、なんといってもこれに尽きる。
私たちは表現をしなくてはいけないことを100%理解している。ではなぜ出来ないのか?それは表現する方法を知らないからだ。「表現」という言葉を「英語」に変え、少し文脈をいじくるとさらに理解できる。
私たちは英語を話せるようにしなくてはいけないことを100%理解している。ではなぜ出来ないのか?それは英語を話す方法を知らないからだ。
練習方法
時間
ピアニストになるための練習時間に答えがないことは、この記事をご覧になっている方々ならわかっているはずである。しかし、ここである意味残酷でもあり、希望でもあることを申し上げなければならない。
天才はそんなに練習しなくても上手い
練習時間に対して無頓着な先生は、もしかしたら天才型の先生かもしれない。また、〇時間は練習しなさい、とおっしゃる先生は努力型の先生かもしれない。いずれにせよ、天才でない人はそれなりの練習時間が必要である。
かのショパンは「1日に3時間以上練習してはいけない」と言ったが、これは明らかに彼が神童であったことを証明している。かのリストは「重いピアノで6時間練習しなさい」と言った。リストが天才であったかは不明だが、この文言を見る限り努力型であったことは否めない。
ラフマニノフも敏腕ピアニストであったが、彼も相当な練習魔だったらしい。ピアノに天賦の才を与えられなかったものたちは、どうしても練習時間は必要になる。あえて指標を示すとしたら、6時間未満。
人間は1日に集中できる時間量が限られている。6時間でも実は多いくらいで、本当は3時間程度しか集中できない。しかし、我々は天才ではない。だから、80%の練習効果しか無くても練習しなくてはならないのだ。
練習の流れ
スポーツ選手は毎日決まった練習メニューをこなして成果を出しているが、ピアニストはどうだろうか。おもむろに楽譜を開いて初めから弾いてみて、気に入らなかったらそこを弾く。最後まで行ったら、もう1回最初から。果たしてこのような行き当たりばったりの練習で良いのだろうか?
毎日決まった練習メニューをこなすことは、安定した実力維持につながる。かのイチロー選手は、毎日決まった行動を決まった時間にしていた。これほどに習慣の力を証明していることは無い。
練習メニューの指標を出すことは、頭を使わないマネに通じる。練習メニューを決めることは各自が、各自の生活スタイルに合わせて行うべきだ。
練習における留意点
練習に内容の濃淡があることは良く知られている。しかし、濃い練習を知っている人はごくわずかで、ピアニストでさえも練習効果の薄い練習方法を取り入れている場合がある。ここでは研究結果や、私自身の経験を踏まえた留意点を書き連ねていく。
ゆっくり練習すること
ゆっくり練習すると、ミスタッチは少なくなり、多くのことを確認しながら練習できる(=頭を使って音に対する情報量を詰め込んで練習できる)。実際、速く演奏する際の手の動きはゆっくりのときのそれと同様だから、速く演奏するときは、ゆっくり弾いたときの感覚を早送りするようにすれば良い。
速い練習しかしていない人、ゆっくり練習をしている人は手の動きですぐにわかる。また、演奏の内容の濃さも段違いだ。
こまめに休憩を取ること
10時間でもぶっ続けで練習できる人もいるだろうが、9時間半分の練習は恐らく頭に入っていない。私たちが一定の時間の間に覚え続けられる量は限られていて、それ以上覚えようとすると、脳が勝手に記憶の消去を始める(もう単語が頭に入らないというのはこのこと)。
少なくとも30分に1回は5分程度の休憩を取ること。しかし、まだこれでも休憩は足りない。休憩は脳に蓄積された記憶を整理する。これにより長期記憶を司る脳の部分に記憶が移動され、記憶が定着する。
私は反復練習をする際、5回以上連続して弾かないようにしている。5回弾いたらスクワットや腕立てなどの運動を行うようにしている。なぜなら、運動によって脳に新鮮な血液が循環するようにし、記憶の定着をより強固にしたいからだ。
脳に血液が回れば回るほど、脳の活動が活発になることはご想像できるだろう。ピアノの練習とは科学であり、またスポーツであり、芸術である。
録音するということ
客観的な耳で自分の演奏を聴くと、自分の思い描いている理想とは違う箇所が散見されるだろう。私たちがピアノを弾いている間、客観的な耳で自分の演奏を聴くことは難しい。
ここは文明の利器である録音機を使うと良いだろう。我々はピアノを弾きながら自分の演奏を客観的に聴くという、泳ぎながらパスタを食べるようなことは普通はできない。録音することは、弾くことと聴くことを明確に分けることができる。
過去の巨匠たちは録音機に頼らず、泳ぎながらパスタを食べるという離れ業が出来ていたことも書き添えておく。
音楽の考え方
ほとんどのことは音量で表現できる
音楽のバロメーターには音量、長さ、音質、音色の違いなどが挙げられる。しかし、1番重要視しなくてはいけないバロメーターは音量なのだ。音色に関して言えば、音量次第でいかようにも変化し、あたかも音色が変化したように聞かせることが出来るのだ。
音量の変化など、表現としては乏しいという方がほとんどであることは想像がつく。では、あなた方は音量のコントロールに関してはパーフェクトなのか。旋律と伴奏のバランスや、対位法でのバランス、また楽器の発達論的に見た低音域の音量の在り方について精通しているのか。
音量の変化は誰でもできる。誰でもできるから、奥が深いのだ。走ることは誰でもできるが、100mを9秒で走る人間はごくわずか。音量に関しても同じことが言えるのではないか?
和声、音楽理論の知識を生かすこと
音大生ではない方々には申し訳ないが、ここでは和声、音楽理論を勉強したていで話していきたい。
音楽理論とは、どのように作品が作られていたかなどの分析をすることで、楽曲分析に必要な知識を学ぶ。対位法の分析やソナタの分析、和声、主題分析もこれにはいる。
和声とは決められたソプラノorバスに和音を付し、禁則を犯さずに美しいコラールを作る勉強である。どのように禁則を回避し、より美しい和声を作るかというのは、どこか論理学にも似ている。
ここで問題なのは、これらの勉強が形式化されてしまうことである。主題を定義し、主題労作の変遷をたどり、和声を分析しら作品全てを理解した気になっては、それは極端にレベルの低い話である。
そこからどんな音楽(表現とも言えるか)や解釈を見出すかが問題なのであって、主題労作の変遷を終えたから作品をうまく弾けるわけではない。本来、このような高度な解析ができる人であれば表現や解釈を見出すのは容易であるはずなのだが、実際はそうではない。
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